田根剛⽒(建築家/以降、田根) 建築と衣服は衣食住といわれるように、生活の大事な要素です。しかし日本の場合、建築も衣服も社会の中で昔からのシステムがあまり変わらないまま、使ったら捨てるのが当たり前で、あまり問題視されていませんよね。環境に関する情報は増えていても、行動は変化していないですね。
中里 田根さんはパリにお住まいですよね。日本は木造建築が中心なので循環させるのは難しいのかもしれないですが、ヨーロッパだと建築が石でできているので、数百年単位でリノベーションをしながら使い続けているイメージがあります。
田根 木造でも長期的に使えます。今画面で見えているのは自宅なんですが、パリ市内の20区にある築150年のアパートです。一番上の階で、天井は木なんです。でも、全く問題ないですよ。法隆寺は木造建築ですが、1300年ずっと直しながら使っていますよね。木は柔らかい素材なので作り直しながら使い続けられます。それなのに、日本で30年ごとに家を建て替える状況になっているのは、近代産業システムの影響です。人口が増えたことに目をつけ、住宅を作って壊すことを繰り返せば日本経済は成長すると、経済の原動力にしてしまったんです。
中里 経済を回すために家を壊しているのですね。単純に長く使った方が良さそうですが、どうなのでしょう?
田根 僕が一番問題視しているのは、日本の「耐用年数」というシステムです。コンクリート建築なら47年、木造住宅なら22年で資産価値が0円になると国税庁が決めているんです。物には役割があると思うのですが、その役割を終えないうちに「耐用年数」で資産価値が0になってしまう。普通、物は時間が経つと価値が上がったり、そうでなければ価値が担保されたりするというのが、財産的な価値の考え方です。建築も文化であるはずなのに、資産価値で見られてしまうんです。そして、資産価値が0円になったら、土地には価値があるけれど建物には価値がないと見做されるから、建物を壊して土地を売る。すると再びその場所には新築の家が建てられて経済が動く。だから国税庁はそうしているんですが、この発想が変わらないと街の財産は増えません。一方フランスでは、土地と建築を、財産的な価値で測ります。だから基本的に街の価値が上がっていきます。
中里 非常におもしろいですね。日本では、建物は資産的な価値が国税庁で決められていて、時間が経つと「0円」になってしまうけれど、財産的価値は資産的な価値は必ずしも連動しないということですよね。頑丈に作って大事に使っていれば、価値がそのまま残ったり、逆に増えたりするはずです。資産価値が0だと言われると壊したくなる気持ちもわかる気がしますが、財産的価値で考えられるようになるといいですね。
寒川裕人⽒(現代美術家/以降、寒川) 前提として、現代美術はおそらくあらゆる業界の中で最も自由な領域で多様な考え方が共存しており、それ自体が重要だと感じているので、今日お話しすることはあくまで僕いち個人の考えです。
価値という意味で非常に重要な要素の1つは、ユニークピースであることです。たった1つしかないと言えること。写真や映像だともう少し複雑な要素がありますが、絵画や彫刻といった、いわゆるオールドメディアは、それ自体が複雑で保存性もそれなりにあると見なされます。もう1つ重要な要素は、アイデアやコンセプト、発明の希少性です。誰もかつて実行したことがない、同じ文脈では見たことがないもの。発表しても理解が得られないリスクがあるなかで、その作品を発表していくには意思や自信、信念が必要です。こういった価値の要素を作品に感じた美術館やコレクターなどが、作品をなるべく遠くに未来に、つまり数十年後やもっと先まで残していこうと価値をつけるんですよね。
アートは驚くような金額が動く割には大きなシステムめいたものがあるわけではなく、仮にあったとしても長持ちしないので、王道はローカルだったり地道だったりするのですが、大きくいえばこういった価値付けで経済が回っているのではないかと考えています。
中里 服の場合は、原価を積み上げていきつつ、そこに付加価値を載せて最終的な価格が決まることが多いのですが、コンセプトの希少性に価値がつくというのはおもしろいですね。たとえその辺りにある紙を使って原価が安かったとしても、コンセプトの希少性があれば永遠に残すべき価値になるかもしれないということですよね。
寒川 そうです。もちろんコンセプトを考えただけでは価値付けは難しいので、それを例えば絵画やそれに準ずる「もの」として形にしないとならないと思います。そして、「もの」には保存性が必要です。たとえば絵画は数百年の修復技術の蓄積があるので、分子レベルで見れば違うものになってしまう可能性はあっても、法隆寺のようにその価値を継続的に保存できます。そういう意味での保存性。つまり、価値付けできるのはコンセプトと、それをぎりぎり体現する、わずかでも保存性ある「もの」ということです。

田根 ファッションのなかでもモード界は、時代の風潮というか社会の通奏低音を拾い上げて作品に反映し、それをメディアから情報として流しますよね。実際に人々が着る衣服とは違うところがあります。モード界の場合は、社会のなかで共通の認識を持てている時点では古さを感じないけれど、その認識が変わってきたときに古さを感じるのではないでしょうか。
その点でいえば建築も同じです。たとえば90年代後半から2000年代にかけて、オランダの建築が世界のいわゆるトレンドになりました。それは見た目がオランダ風だという話だけではありません。デザインの段階から抽象的なダイヤグラムという、伝えたい情報を整理して図表や図版で表したものを構成することで自由度を得るという建築のあり方の話ですが、それすら今やっている人はほとんどいないんです。つまりアイデアの賞味期限はたった15年ほどです。今は日本の建築が影響力を持っているのですが、実際に立ち上がった建築物を都市や街のなかで見た時に、時間の経過とともに古びるか、馴染んでいくかは全く違う問題です。
情報としての新しさ・古さと、時がたっても風化されずにそこにあり続ける強さは異なるんですよね。先ほど寒川さんが絵画の修復の話をなさっていましたが、教会にかけられている中世の絵画などは、技術やテクニック、スタイルは古くても、精神に訴えるような力強さがあります。脳で情報として新旧を判断するものと、体に訴えるものはちがうというか。新しい・古いという時間軸で物事を見ると、物の見方を間違えてしまうのではないでしょうか。独自の視点や考え方、言葉遣いを大事にする優れたアーティストも新しさ・古さの軸で物事を見ていないように思いますし、個人的にもやらないようにしています。
中里 脳で感じる古さ、新しさと、ずっと残る強さは違うという点、非常におもしろく聞いていました。ファッションは建築に比べると、構想から世の中に実装するまでが短い時間軸で進みます。だからファッションにはそういったスピード感があるのかもしれません。現代美術ではいかがでしょうか。古さ、新しさに関して寒川さんはどう捉えられているのでしょうか?
寒川 現代美術の世界では、哲学が一つではないことが前提になります。古いものがダメで新しいものが良い、どちらかを選択し、どちらかを否定しなければいけないという態度があるとしたら、それはたぶん現代美術のことを根本的に理解できていないのだと思います。もちろん美術でもアートフェアやブロックバスター、シーズンによって盛り上がる時期はあって、そういうときに「最近よく見る」と思うものはありますが、それについても考え方は一つではありません。あえて刹那が良いという判断もあれば、永遠を考えるという判断もあります。
かつて刹那的だったものが再び注目されて新しい流れをつくることもあるのが、美術のおもしろいところです。70年代から80年代のアメリカで脚光を浴びたバーバラ・クルーガーという作家がいます。画像の上に赤い四角を起き、その上に白い文字でメッセージを載せる作品で有名で、たとえば手の写真の上にデカルトの『I think, therefore I am.(我思う、故に我あり。)』をもじった『I shop therefore I am』を載せて消費主義の社会に問いかけるなどといった作品を作っています。Supreme(ファッションブランド)のロゴは彼女の作品を真似て作り、それも議論を巻き起こしました。そのバーバラ・クルーガーが、ここ数年、再び脚光を浴びています。70年代に美術にあったものが完全に大衆化して、社会の変化と共に新しい文脈を得て、再びストリートやインスタグラムで目にするようになったのです。これをクルーガー自身が計算したわけではないですよね。古いもの、新しいものと単純には言えないと思います。
寒川 例えば僕は2018年頃から、インターネットを1日5分に制限しています。デジタルネイティブ世代なのでインターネット好きなのですが、受動的な情報摂取を減らしたいと思ったんです。iPhoneの制限モードを活用して、メッセージや天気予報などは見ることができてもサファリやGoogle検索、ニュースサイトやSNSなどは一切見られない状態に身を置いています。最初は困ると思っていたのですが、重要なことはやはりちゃんと入ってくるんですよね。そもそも30、40年前はこんなふうに情報が入ってこない状態ですばらしい作品を生み出せていたのだから、今できないことはないはずです。皆さんにも薦めます。
その結果、感覚が研ぎ澄まされたように思います。今は、プロダクトもファッションも建築も、非常によく練られたものが、一瞬のニュースとして出てきて流れていってしまいます。さらに、そのプレゼンテーションはときには実際よりも良くなってしまっていることもあります。そういう情報を摂取しすぎるのは良いことではないし、それを見なくてもオリジナリティのあるものは作れると思うのです。
中里 時代の感じ方をちょっと変える、センサーを変える感じですね。独特でおもしろいやりかたですね。田根さんは何かなさっていますか?
田根 社会人として褒められたことではありませんが、僕自身も新聞を読んだりニュースを見たりという情報摂取はほとんどしていません。調べ物には便利だからネット検索を使いますが、情報は人を通じて得ることが多いですね。メディアが一方的にスポットライトを当てた情報を鵜呑みにするよりも、知っている人から伝わる情報の方が信頼度が高いと感じます。
またネットとかテレビは発光をしているから、情報として刺激が強いんですよね。1日7時間くらい寝て、スクリーンを5時間ぐらい見たら、人生の半分が寝ているかスクリーンを見ているかで終わってしまい、それは生理的に嫌だと思うのもあります。また、本で読んだ情報だと感動した文章は残っているのに、ブログやネットニュースで見た文章ってなぜか頭の中に残らないんですよね。デジタルに対する違和感が自分の中にあります。
中里 古さ、新しさは情報に対して頭の中で感じることだとすると、もしかすると情報の摂取の仕方を変えるだけで、縫製の強度を高めることもせずに、服の寿命を伸ばせるのかもしれないと感じました。

寒川 ありがとうございます。2019年の作品ですね。2021年の美術館の個展では、その漆黒能を圧縮し「想像 #1 a man」という彫刻作品を作りました。すべての工程を、僕自身も完全な暗闇の中で人の彫刻を作り、誰も見たことがなく、永遠に見られることのない彫刻作品です。予約制で一人ずつその暗闇の中で像に触ることもできる。「像を想う」というタイトルをつけています。
目に見えるイメージには当然限界があります。50年以上前から「もう絵画は終わった」と言われ続けています。ファッションもそうだと思うのですが、見た目のイメージだけでは必ず限界がきます。でもそこに文脈を伸ばしていく、反転していくような作品が作れないかと考えたのです。「漆黒能」や「想像」は、ルッキズムや見た目での差別が目に見えるイメージから始まってしまうこと、あるいはモニュメンタルなものに対しての反発という側面もあるかもしれません。そういう文脈への意識はファッションを考える上でもヒントになるのかもしれないですね。
また、「想像」という作品は写真もスケッチの残していないので、体験した人の感想としてしか情報がありません。この体験は、体験する人によって全く違って、「ずっと前に無くした親や子供に見える」という人もいれば、「昨日見た映画の誰かのことを思い出した」という人もいて、現在の「情報」として語れるものの外側に位置付けられると感じています。
中里 そうなると劣化、流行りという概念からは離れていきますね。
田根 「想像」は彫刻に触れることで、人々の個人的な記憶に結びついているのだろうと感じました。流行や時代に消費されないために、僕の場合は「記憶」を重視しています。建築の場合は、場所を支える役割がありますし、個人個人の記憶というよりも集合的な、時代を超えて多くの人の記憶に残ることが重要です。やはり「記憶」が一番強い情報だと思うんですよね。
田根 何を問題視するかという話だと思いますね。情報が増えすぎると、不安が募る傾向にあります。その不安は実態とは違うところ、生活とは違うところで感情を左右してしまいます。環境に関しても、不安のあまりお金を回す経済に組み込んでいくのだとしたら、30年周期で家を壊すような経済を動かすための圧力と変わらなくなってしまうのではないでしょうか。経済の循環は重要ですが、そのために物を捨てたり壊して、それを分解したり再利用したりしても、その先に豊かな未来は描けません。
中里 たしかに、単純に素材をもう一度再利用していくという機械的な話に落ち着けてしまうと、リサイクルや資源循環のシステムができた後には、結果として同じことが繰り替えされてしまって、大量消費・大量生産の延長にしかならない気がしますね。その軸とは違うところにずらしていくために、「記憶」というのは良いキーワードではないかと思いました。
田根 「記憶」というと、どうしても過去のものというイメージになりますが、僕自身は未来を想像する原動力だと思っています。服で言ったら、人生にとってどれだけ大事な服に出会い、人生を共にできるか。服は、自分の未来を作っていく上での大事な要素に、なれますよね。
中里 そうですね。ファッションを考える上で大きなヒントをたくさんもらったと思います。田根さん、寒川さん、今日はどうもありがとうございました。