中野信子氏(脳科学者/以降、中野) 多様性は一言で言えば種の保存を目的とした生存戦略ですよね。今私たちが食べているバナナという植物はクローンで、種からは育てないのですが、一つのウイルス、病原体でその地域のバナナが全滅の危機に瀕する、なんて話をよく聞きます。またクラゲは生活環の中で無性生殖と有性生殖の両方を行います。効率よく子孫を増やすことのできる無性生殖の利点と、より環境の変化に強い有性生殖の利点の双方を活かしたやり方です。でも私たち人類はわざわざ、相手を探さなくてはならず、女性が身を裂く思いをして子を産むという、コストの高い有性生殖を採用しています。それは、無性生殖では達成できないメリットを生存戦略として選択したということだと考えられます。多大なコストと引き換えにしてでも選択せざるを得なかった、そのメリットこそ、多様性であったのではないでしょうか。
宮田裕章氏(データサイエンティスト/以降、宮田) 気候変動などを考えると、多様性があった方が人の生存の可能性が高まりますから、多様性は生存戦略として必要だということは一つの答えですよね。たとえば「環境とサステナビリティ」と言ったときに、日本人は「自然そのもの、あるがままが良い」と考える人が多いですが、砂漠のようなところでは自然のままにしていては人間は死んでしまいます。「人工的に辺り一面に花を咲かせる」というのが良いという価値観も重要で、多様な価値観を認めることは必要です。
ただ手段として多様性が必要だと言うだけだと、たとえば環境に非常に適応した一種類だけを残すほうがいいこともあり得ます。局所的にはもしかしたら「一点集中突破で多様性を捨てた方がいい場合もある」と多様性が否定できてしまいます。そこで、生物としての生存戦略ではない点でも、多様性の必要性を付け加えたいです。
「どういう社会を作るべきか」という問いを、我々はずっと持ち続けてきました。そのなかでジョン・ロールズという20世紀の学者が「どんな立場に立たされたとしても、世界を肯定できる社会をつくろう」と主張したんです。貧困に生まれたり、少数民族でマイノリティだったり、先天的にハンディキャップを持って生まれたりしても、社会を肯定できるような仕組みを考えようと。彼の主張は当時、「いろんな立場には立つなんて不可能だ」「絵空事だ」と否定され、彼自身も後年、違う方向に行ってしまったんですが、今はデジタルの発達によってさまざまな立場に想いを巡らせて繋がれるようになっています。ウクライナとロシアの戦争も、少し前であれば局地的な紛争になっていたかもしれません。でも、今、あの状況を世界中の小国が見て、次は自分の番だ、あれを肯定すれば核武装を背景にした侵攻を許す世界になってしまうと批判しているわけですよね。デジタルで多様な立場に立てる今だからこそ、理想の世界を作るために多様性は必要だと思います。
中里 昨年も「多様性と包摂」のテーマで議論しましたが、今年はここに「公平性」も加えた方がいいのではないかとも思っていました。まさに、それにつながる話だと感じました。デジタルの発達によって多様性に想いを馳せられる環境になってきたということですね。そこで次に、なぜ今、多様性が社会の中で盛んに議論されているのかについて、お考えをお聞きしたいです。中野さん、いかがでしょうか。
中野 「わざわざ多様性を議論しなければいけなくなってきた」ということだとも考えられます。私は今40代ですが、子供の頃は電車の中に、今なら精神障害と言われる人が2、3人はいました。子供のコミュニティにも今なら精神遅滞と言われる子が当たり前にいて、排除すべきだとは思いもしなかったのです。みんなが同じでなければいけないとは思わなくて、むしろ人とは違いたかった。でも今、それがだいぶ様変わりしてきました。文学賞の審査をしていても、個人的な体験としてみなさんが提示してくるものは毒親モノばかりです。インターネット、SNSなどによって情報が速く行き渡り、価値観が似通ってきました。真似がしやすくなったところに美容整形の技術発展によって「流行の顔」というべきものすらできました。個人の幸福も標準化されて、本当は他のことをするのが満足なのに、みんなの基準に合わせなくてはいけないような圧を感じさせられているのかなと思います。わざわざ多様性といわなければいけない時代になったのではないでしょうか。
中里 特定のネットワークの中で一つの価値観や美意識が一気に広まって、それに合わせないといけないようなプレッシャーがあるということですね。そのネットワークの内部にいると、抜け出すのは難しそうですが、どうしたらいいものでしょうか。
中野 脳科学では、個人的な好みを判断する領域と、空気を読んで情報を処理して流行を判断する領域、美しいわけではないけれどかっこいいと感じるものを処理する領域は別なんです。何かを選ぶときには、その機構が複雑に作用しています。ペプシとコカ・コーラをラベルなしで飲ませるとペプシを選ぶ人がわずかながら多かったのに、ラベルありで飲ませるとコカ・コーラを選ぶ人が多くなったというペプシチャレンジと呼ばれる実験があるのですが、人は自分の本来の好みとは違う選択を、自分以外の人の様子を受けてすることも多い。マーケティングではこの現象を使って、有名人がこれを着ているから私もこれを着ようとか、これを使うとかっこいいと思われるから使う、と選択するように仕向けるようなところがあります。この脳の働き自体は大事な機能ですが、自分の本来の「好き」は別のところにある。この「好き」を殺す必要もまたありません。同時に周りの人の「好き」も殺してはいけないのではないか。これが「包摂」ということなのではないでしょうか。いかに流行りから外れていたとしても、その人の「好き」は大事なもの。自分と他者の「好き」を状況の圧力から守れる人が、「自分の世界」を構築できると思います。
中里 なるほど。宮田さんは、なぜ今、多様性が社会の中で議論されているのかについて、どうお考えですか?
宮田 多様性の議論自体は最近になって登場したわけではなく、マルチカルチャーリズムという言葉が以前から使われていたんですが、やはりインターネットの普及によって様々なものを知ることができるようになったのは大きいですね。先ほど私は「デジタルで多様な立場に立てる今だからこそ、理想の世界を作るために多様性は必要」と言いましたが、情報さえ繋がれば、人やコミュニティ、社会をより良い方向に向かわせられる、というわけではありません。それにはいくつか理由があって、1つは言語の壁です。同じ言語圏内では同調圧力が高まります。だから、中野さんがおっしゃったように顔すら同じになっていくような状態になるのですよね。
もう1つ大きな理由は、インターネットによって人をつなげるモチベーションが「お金」にあるということです。facebookのメタ、Google、アマゾンなど、デジタルを使ったビジネスの王道は、とにかく長い時間、ユーザーに自分のサービスに滞在してもらって、ユーザーが心地よく感じるものに浸らせて、その結果お金を使わせるというモデルです。心地よくないものからは隔てられてしまうんです。その結果、それぞれの「心地よさ」でまとまって、その「心地よさ」自体は多様ではあるけれど、そのまとまり間に何も繋がりがないという非常に厳しい状況が起きています。
Black Lives Matter(ブラック・ライブズ・マター)という人種差別抗議運動がアフリカ系アメリカ人に対する警察の残虐行為をきっかけにアメリカで始まりましたよね。2020年にその運動が大きくなると、Black Lives Matterをどう訳すかが話題になりました。「みんな大事なんだ」と誤訳をする人もいましたが、アメリカでも昔から、差別はいけない、自由も多様性も大事にしよう、多文化主義で人種の坩堝だとずっと言ってきているわけです。でもその裏で、現実には格差がどんどん開いてしまっていました。奴隷制を解消して黒人の権利を掲げてきても、置かれた環境や受けてきた教育などによって格差はどんどん広がり、無視できないレベルになってしまったんです。だから「黒人の命から始めなければいけない」というのがあのBLM運動なんですよ。「みんな大事に」という綺麗事ではなく、著しく傷つけられている立場に立った上で、社会のあり方を見直さないと、もう一歩も先には進めない、という話なんですよね。
この話は日本でも他人事ではありません。2020年にアラブ首長国連邦で行われたドバイ万博は、女性をメインアクターとして開催されました。それは、周辺国のジェンダー不平等(男女格差)が大きいからです。ドバイの隣国サウジアラビアでは、数年前まで「脳的に劣る」というとんでもない理由で女性には運転を許可していなかったほどです。ただアラブ首長国連邦のジェンダーギャップは2022年の段階で世界68位、サウジアラビアは128位で、日本は121位とサウジアラビアに近い状況なんです。この問題を認識している人が極めて少ないこと自体、日本の課題ですよね。
つまり、「多様性」といったときの緊張感は、もうみんな仲良くやりましょうよというレベルの話ではないんですよね。

中野 どちらかというと、相手が私に対してバイアスを持っているであろうことを意識せざるを得ないことの方が多いように思います。少なくない数の男性は、女性よりも強くなくてはならないという呪いのようなものにかかっていて、女性が誇りを傷つけるようなことをうっかりしてしまうと、怒り始めてしまう人もいます。何事かを努力して達成したとしても「こんな実力を女が持っているわけがない、バックに男がいるに違いない」と思われて悲しい思いをすることもあります。この状況に対処するには、成果をあまり強調しすぎないのも手なのかもしれません。また、自分1人でやっているのだと突っ張るというやり方もあるでしょう。本当に後ろ盾となるような男性を見つける人ももちろんいます。人によっていろんなやり方があるとは思います。私自身は、できるだけほどほどにして、全力を出し切らないようにしています。
中里 それはとてももったいないことではないですか。
中野 そうでしょうか。全力を出し切ることが必ずしも良いこととは限らないようにも思います。この話に限らず、何かの良し悪しを判断することは実はとても難しいことです。たとえば、良かれと思って何かをする。でもそれが本当に良いことかは、わかりません。余計なお世話かもしれない……。良かれと思ってやったことが、いいことだとは限らないということは、よく考えますね。
宮田 良かれとすることが間違っているかもしれないという前提を持っておくのは非常に大事だと私も思います。女性の場合で言うと、よく大企業のだめな上司が「女性は昇進なんて望んでいないんだよ。希望を聞いたからわかる」などと言いますよね。でも、その議論をする前に、本当にフラットで選択できるような環境を用意したのかが問われるわけです。たとえば人生の帰路で出産かキャリアかを選択するとき、たいていの場合、いろんな圧力で一方しか選べないのが日本の現状です。それなのに、男性側が安易に事情もわからず「本人が望まない」と決めるのは大間違いですよね。アンコンシャスバイアスも含めて、フラットな選択をするのは難しい。
それは格差の話だけではなく、たとえば自然に関しても同じです。日本人が「自然はあるがままに置くのがいい」と考える人が多いですが、北欧など寒い地域の人にとっては、自然は恩恵をもたらすものというよりも、身を委ねたらあっという間に命を持っていかれるものです。良いと思うものが、常に共通するとは限らないんですよね。多様性が重視される時代にはアートやデザインなど、表現の役割も変わってくると思います。これまでは、マルセル・デュシャンの作品などを見てもわかるように、既成概念をぶっ壊す役割がありましたが、これからは「共有できるものを作っていくこと」が役割になるのではないでしょうか。
では、何が「共有できるものになるか」ですが、以前に森美術館の館長の片岡真実さんと対談したときに、「祈り」「不安」を共有とすると教えてもらいました。国際芸術祭「あいち2022」などを手掛ける際、「地域を大事に」と言っているだけでは他の地域と繋がりは持てません。そこで、地域の歴史を紐解いて、その地域の持つ祈りや未来に対する不安を必死に探すそうなんです。それをベースにすると、さまざまな人や場所と新しい繋がり方ができるとおっしゃっていました。「祈り」「不安」は少し前だと宗教のような、トップダウンのもので行われがちでしたが、今後はボトムアップで人々が共通して持つ祈りや未来に対する考えが糊代になっていくのではないでしょうか。

中野 制服は貧困対策のためにあるとも言われていて、一定の役割があるのだと思います。ただ、学校教育はそもそも国民皆兵制がもとになってできていると言われます。「義務教育」はなぜ「義務」なのかといえば、これは国家に対する義務といことになります。優秀な「規格品」=兵士という図式がかつてはあった。そのように育てる義務が、国民にはありますよ、が前提と考える必要がある。そういう場所で着るものを統一するということは、良し悪しは別として、教育、ひいては思考を統一することにつながると感じます。
衣類につく衣ジラミの遺伝子を調べてると7万年前に原種と分岐しており、そこから衣服の歴史は7万年前から始まったと考えられています。もう一つ興味深い研究に、言語を司る重要な遺伝子の分岐をさかのぼってていくと、どうもこれも7万年ぐらい前に、人間が音声言語を使い始めたのではないかという計算になり、有力な説だと考えられています。これらを考え合わせると、言語ができた時代と衣服ができた時代はほぼ同時期ということになり、どちらも重要なコミュニケーションツールですよね。
中里 なるほど。重要なコミュニケーションツールとしての衣服を、制服は統一しているということですね。宮田さんはメディア等で拝見してもさまざまな装いをされています。制服に関してどうお考えですか?
宮田 私は他の人と未来を考える活動をともにする際に、違和感をもたらすための手段として服を着ています。制服と並んでスーツも、中野さんがおっしゃったように歯車として生きるためのもので、それは私が伝えたいものとは違うんです。
少し歴史を遡って考えてみましょう。先ほど中野さんから言語と衣服の発祥が7万年前という話がありましたが、その後四大文明で治水事業が行われるようになると、治水事業は大プロジェクトですから、人々を束ねる必要が出てきます。神や王の権威を使って人を束ねたわけですが、その権威をはっきりと見えるようにするために、ファッションは重要な役割を果たしたわけです。例えば平民や奴隷は裸足だったけれど王は特徴的なサンダルを履いたり、身分によって装飾具をつけたりしたんですね。これが次第にお金で世の中がドライブされるようになると、富の象徴としてファッションが使われ、その後産業革命の時代になって大量生産・大量消費の世界になっていく。そこでは歯車としての人間が必要なので、ある種、精神的な拘束具として制服やスーツが登場したと言えます。
楽観的な見方かもしれませんが、この状況がこの先変わるんです。大量消費・大量生産がビジネスの前提ではなくなって、社会も経済ドリブンではなく、「世界はこうあるべきだ」という未来ドリブンで、多様な文化が生まれ、経済が回るようになる。今までは未来ドリブンにしようとしても「そんなことやっても儲からないぞ」「お前がやっていることは無駄だ」と言われたのですが、画一化戦略では勝ち残れない時代がきます。経済ドリブンだった人も多様性ドリブンに向かう必要が出てくる世界になると考えられます。
ここで改めて確認しなければいけないのは、ファッション産業も今までは大量生産・大量消費が前提の経済ドリブンで進んできたということです。「これを持っているとすてき」というものを作り上げ、「そこから外れたらダサい」というイメージを作り、あえてそのトレンドをすぐに変える。そして「今その服を着てるのはダサいですよ」と破棄させる。それで市場を回してきたのが、パリコレを頂点とするファッション産業です。この、無駄の塊のような発想・行動に対する大きな反省が、今、ファッション産業をサステナビリティ大転向に向かわせているんですよね。
大量消費・大量生産モデルが終焉し、人を消耗品・規格品としてみる発想から、生き方そのものから啓(ひら)いていく時代になるんです。ファッションは社会と人がつながるコミュニケーションツールですから、その時代に、人と何を繋げ、人をどう啓くのかが問われる、非常に重要なものですよね。
中里 おっしゃるように、ファッション業界はすてきだと思うものを作り上げ、半年に1回アップデートし続けてきました。経済的には効率がよかったわけですが、それが環境破壊を生んでいると、作り手側にも消費者、生活者の方々にもわかってきています。そのなかで経済も成り立たせながら、一人ひとりの多様性をどうやったら尊重できるのかが、今問われていますね。

中野 非常におもしろいですね。先ほど宮田さんのお話にあった、お金が行動や認知を変容させるという現象については、脳のDLPFC(背外側前頭前野)という、利得や損失の計算を行う部分が担っていると考えられます。有力者の誰それがこの作品を好きだ、というような情報もその計算には含めて価値として算出します。実は前頭前野のかなりの部分を、私たちは美や装飾性の認知に使っているんですよ。戦闘や大規模なプロジェクトのためには、「かっこいい」「美しい」「あのロゴを身につけたい」と認知する必要は本来はないですよね。でも、この機能があると、言葉を使わなくても「あなたと私は同じものを共有していますね」と共感し、仲間として認知するので、間接的には戦闘力に寄与することにもつながると考えられるんです。
戦闘の話から離れれば、衣服は「あなたもYUIMA NAKAZATOを着ているんですか。私も好きです」と、社会性のトークンとして機能します。一見、無駄なように見えても、「装飾性」は脳の処理能力の多くの部分を使っているわけですから、我々の生きる複雑な構造をもった社会においては非常に重要な役割を持っている可能性が高い。
さらにおもしろいのは、衣服は着脱できるということです。軍隊の一員として戦うときは権威のユニフォームを着る。けれど、そうではない場面では、家族、仲間、他の仕事のユニフォームを着る。あるいは自分が好きな物を着る。複数のペルソナを持つ複雑な自我の処理を、衣服を交換することでより軽くしているんです。人間は複数の集団を渡り歩くことができ、現代の倫理からすればあまり許容されることではありませんが、時には複数の家族を持つ人もいます。霊長類ではこれができず、集団から一度外れて出て行ってしまうと、もうその個体は死んだことと同じだとみなされて、仲間だとは認知してもらえなくなるのだそうです。人間が特異的といってよいほど、複雑な構造の自我を持つことができるのは、ややスペキュラティブですが、言語と衣服が並行して発達してきたからかもしれない。
少なくとも、衣服によってその人の内的認知が影響を受ける。すると、行動の差となって表れます。これはファッションの実験ではありませんが、同じ人を高級スポーツカーのフェラーリに乗せた場合と、大衆車のカローラに乗せた場合では、唾液中のテストステロン量に有意差が出るという結果もあります。世俗的な地位があって立派な人でもカジュアルなダメージドのTシャツを着ていれば、カジュアルな気持ちになりますよね。装飾性と一口に言っても、認知に大きな影響を与えるものであり、服装を変えることによって、究極的には集団のコントロールができてしまう、自分もコントロールされてしまうということは、服を作る人は知っておいてほしいですね。
宮田 類人猿と違って人間は物理的距離を超えられる、ペルソナを複数持てるという話、とてもおもしろいですね。ただ、やはり今まではどうしても物理的コミュニティが重要で、半径何キロ以内の人たちからの評価を意識してきました。そのなかで、パリから来たファッションをトップダウンで再解釈して流れを作り、乗っかって来たわけです。
でもこれからは、インターネットによって世界中と繋がれます。東京のファッションを意識するのではなく、私はアートが好きだからと、アート好きのコミュニティでバルセロナやコペンハーゲンにいる人と繋がって、新しいファッションや文化を共にボトムアップで編み上げることができます。その共に編み上げる、繋がりを作る部分で、ファッションの果たす役割は大きいのではないか。私はそこに可能性を感じますね。
それからもう一つ、これからのファッションの可能性としては仮装空間のアバターに対する役割もありますよね。もしかしたらそちらがメインになるかもしれません。長らくファッションギークとしては、メンズがつまらないものばかりで不満がありました。レディースを着た時代もあったのですが、7割はドレスなどで、着られるのは3割ぐらいなんです。氷川きよしほどになれば着られるのかもしれませんから、勇気が足りないだけかもしれませんが、限界を感じていました。でも、アバターになればボディイメージの制約から解放されます。アバターに多様なファッションをまとわせながら、多様な繋がりを作っていけます。ペルソナを複数持って、多層的にボトムアップで人とつながっていく。私はそれを多層型民主主義と呼んでいるのですが、人と社会のデザインの大事な部分に「まとう」という行為があるわけです。制服やスーツなどのように今まで着せられてきたものを、選ぶものとして見直すと、ファッションには大きな可能性があることがわかりますよね。
中里さんの最初の問いかけに戻ってリアルの衣服を考えると、レディースファッションとメンズファッションは長短があると思うんです。装飾の多いレディースファッションは、トレンド型ですよね。それは環境には害でしたが、世界の美しさを捉える感性が反映されたものでもあります。清少納言が『枕草子』のなかで、春の、夜明けとともに生命の息吹が灯っていく曙の、あの一瞬の美しさをダイナミックに捉えた文章は、千年経っても色褪せません。それと同じように、レディースファッションは瞬間的な美しさを優れた感性で捉え、反映したものだと思います。一方でメンズファッションは精神的な拘束具としての機能を持ちがちで、変化が少なくつまらない部分もありますが、サステナビリティという面では、良い物を長く使う文化が育まれています。その両方が持っていた長所を生かして、ボトムアップで次の時代を編んでいけたらおもしろいですよね。
中里 装飾性の脳に与える影響と、多層型民主主義におけるファッションの役割。非常におもしろいです。ファッションと多様性・包摂を考える上で重要な視点をいただきました。本日はどうもありがとうございました。